理系小説−永遠の江戸時代

科学技術の進歩を軽んじた世界

I.産業革命の不在

1.江戸時代

 時は江戸時代。士農工商の身分制度が作られ、工の身分は軽んじられていた。

 たとえば、次のような逸話がある。

 ある刀鍛冶は言った。「将軍は私たちの作った武器のおかげで天下が取れたのではないですか」と。

 その言葉は将軍に伝わった。将軍は怒って「無礼者!」と一喝した。

 将軍は刀を抜いた。刀鍛冶が精魂込めて作った切れ味のよい日本刀だ。刀鍛冶はその刀で打ち首となった。

2.不思議な仙人

 その江戸時代、鍛冶屋の工兵衛は、たいそう腕のよい鍛冶屋で、鋤や鍬などの農具を作っていた。

 工兵衛は言った。「わたしは農民の生産を何倍にもしている。それなのに身分が低い。こんなことがあってよいのだろうか。」

 それを聞いて仙人が現れた。「未来の者も、そのようなことを言っておる。未来から、おぬしに一冊の本を届けよう」。

 工兵衛は本を手にとって見た。「科学技術事典」と書いてある。2007年発行と書いてある不思議な本だ。
 
 工兵衛は、この世のものとは思えない装丁を見て、仙人にたずねた。「これは何の本か」と。

 仙人は消えていた。

 工兵衛は、何の役に立つのかわからず、家の納屋に「科学技術事典」をしまっておいた。

3.ヨーロッパの滅亡

 その江戸時代、ヨーロッパに隕石が偶然衝突した。

 ヨーロッパは滅亡し、産業革命は起こらなかった。

 今後、長い間、地球における科学技術の進歩は止まることになった。

 世界の科学技術の中心地は、以後長らく、中国の王朝となったのである。

II.明治維新の不在

1.薩摩藩、長州藩の謀反の鎮圧

 時は1860年頃、江戸幕府に対する謀反の動きがあった。

 しかし、ヨーロッパ滅亡により、アメリカに近代文明はなく、黒船などというものは現れていなかった。

 大名たちは幕府を信頼して支えた。謀反を起こした薩摩藩、長州藩等はお取りつぶしとなった。

 この結果、幕府の領地は増え、幕府の支配体制はますます磐石となった。

2.天然痘の流行

 この頃、江戸では天然痘がはやっていた。

 工兵衛の遠い子孫である工太郎の家も例外ではなかった。

 工太郎は、3歳のときに、兄を亡くしていた。ちょっとした傷口から破傷風になったのである。

 姉は死産だった。妹は生まれてすぐ栄養失調で死んだ。

 父母も折からの飢饉で栄養状態が悪く、工太郎が10歳のときに、天然痘にかかった。

 工太郎は父母を看病しようとした。村人は言った。「悪霊に取りつかれたんだ。早く逃げないとおまえまで死んでしまうぞ」

 工太郎は、村人に引き離された。「お父さん、お母さん」と工太郎は叫んだが、村人は無理やり、工太郎を引き離した。

 数日後には、天然痘で死んだ人々のあばただらけの死骸が転がっていた。

3.科学技術事典の発見

 工太郎は、生きた心地もしなくなり、古い納屋に呆然と立ちすくしていた。

 そして、そこに古ぼけた一冊の本を見つけた。科学技術事典である。

 工太郎は、そこに書いてあるこの世のものとは思えない不思議な物の数々を食い入るように見つめた。

 寺子屋で読み書きは習っっていた。本には「天然痘はなくなった」と書かれていた。

 そこには、天然痘の症状の写真があった。人々の死骸に見たあばたである。

 工太郎は、この病気が天然痘と呼ばれることを知り、この本を解読しようと心に決めたのである。

III.江戸時代の続き

1.1900年

 工太郎は、40年の歳月をかけて色々な勉学を積み、科学技術事典を解読していった。

 清からも最新の資料を集めて解読しようとしたが、解読は困難を極めた。工太郎は、50歳になっていた。

 工太郎は、解読の成果として蒸気機関を作ろうとした。

 その頃、世界中のどこにも、蒸気機関は存在しなかった。

 鍛冶屋の仲間たちを集めて蒸気機関の話をした。

 「蒸気で車が走るってよ。工太郎の奴、気でも違ったのか」

 鍛冶屋の仲間たちは相手にしなかった。

 工太郎は、科学技術事典を元に、鍛冶の技術でなんとか車を作った。

 しかし、蒸気機関の詳しい構造が分からない。蒸気機関は作れなかった。

 工太郎は、鍛冶仲間から気違い扱いされた。

 工太郎のことは、将軍の耳にも触れた。

 第18代将軍は言った。「世を惑わすような鍛冶屋は島流しにせよ」。

 工太郎は、八丈島に島流しになった。

2.八丈島での暮らし

 工太郎は、八丈島で罪人として暮らすことになった。

 工太郎は、科学技術事典の成果を誰かに伝えようと思った。

 八丈島に元々住んでいた理津子という女性が読み書きができた。

 そこで、工太郎は、今までの解読の成果を20年の歳月をかけて、理律子に教えることにした。

 工太郎は、八丈島で、まず電気を起こそうとした。

 科学技術事典の波力発電を作ろうとしたが、コンクリートも、鉄もなく、作れなかった。

 水力発電の項目を解読し、小さな水車を作るのがやっとだった。

 それでも、若干の電気が作れるようになっていた。

 江戸では、平賀源内のエレキテルを改良し、電気を作ろうとした者が、世を惑わすとして打ち首になっていた。

IV.20世紀の地球

1.1920年ー1945年

 理律子は、工太郎の遺志を継ぎ、科学技術事典を解読していった。

 理律子の努力により、島流しになった鍛冶屋を中心に人が集まった。八丈島でようやく製鉄ができるようになったのである。

 理律子は、科学技術事典の解読から、鉄で船を作ることが可能であることを知っていた。

 鍛冶屋は皆反対した。「鉄が水に浮かぶわけがない。みんな沈んでしまうよ。」

 古い鍛冶屋たちは言うことを聞かなかった。

 理律子は、まだ頭が柔軟な幼い鍛冶屋の子供を根気強く教育するのに、20年の歳月を費やした。

 ようやく、新しい鍛冶屋たちが科学技術の基礎を覚えた頃には、1940年になっていた。

 1945年頃、新しい鍛冶屋たちを動員し、理律子は鉄の船を世界で初めて作ることに成功した。

2.1945年ー1960年 大航海時代

 この頃、江戸幕府は磐石だった。

 しばしば、飢饉やはやり病で人が死ぬが、江戸幕府に疑念を持つものはほとんどいなかった。

 平均寿命は30歳台であったが、それが当たり前と思われていた。

 中国大陸では、清が隆盛を極めていた。

 清は、鉄の船は持っていなかったが、火薬、漢方薬、絹織物、陶磁器などが発達し、総合的には世界で最も科学が進んでいた。

 八丈島は、鉄の船や水力発電の点では清よりも進んでいたが、全体的にはまだまだ遅れていたのである。

 理律子は、清との交易により、八丈島の科学技術水準を上げることを考えた。

 科学技術事典には、まだまだ未解読の部分があるし、八丈島には原料がなくて作れないものも多かったのである。

 もちろん、八丈島から外に出ることは、幕府から固く禁じられていた。

 しかし、1945年、理律子は、命がけで清への航海を試みたのである。

 理律子は、科学技術事典に載っていた帆船とコンパスを持って航海に出た。蒸気船は未完成だったのである。
 
 航海は秘密裏に何度か行なわれ、八丈島には硫黄、金、銀、銅、鉛などの元素や陶磁器、ガラス、火薬などがもたらされた。

 八丈島の海産物などを用いた交易で清の文明を取り入れることにより、八丈島の科学技術水準は飛躍的に上がったのである。

3.1960年ー2000年 解読の進展

 理律子は、らい病にかかった。当時の不知の病であった。

 命の長くないことを悟った理律子は、子供の工次郎に科学技術事典の解読の成果を伝えた。

 まだ、科学技術事典の大半は解読されていなかった。

 もとより、最後のページ(2007年)に記載されている有機ELディスプレイは、材料が何か分からない。

 原子力発電も、ウランの意味がまったく分からなかったし、どこに行けば手に入るのかも分からなかった。

 飛行機も、ジェラルミンやアルミニウムの意味すらも分からなかった。

 コンピュータも、シリコンの意味すらも分からなかった。また、シリコンの純度を高める方法も分からなかった。

 しかし、清からの文物は、解読をある程度は進展させた。

 たとえば、鉛を手に入れたことにより、水力発電で作った電気を、鉛蓄電池に蓄積できるようになった。

 電球はまだ作れないが、電気の火花で行燈の油に火をつけることはできるようになった。

 また、今までは、水力発電の電気で水を電気分解することはできたが、水素を蓄える方法がなかった。

 それが、清から布とロウを持ち帰ったため、人は乗れないが、小規模な気球を作ることができるようになった。

 このことは思いのほか重要だった。理律子は、子供の工次郎は、神の使いであると、八丈島の島民に布告したのである。

 島民の前で、工次郎は水素の気球を空に上げた。気球はぐんぐん空高く上がっていく。

 島民は、工次郎の力に恐れをいだき、工次郎を神と仰いだ。

 これにより、島民の協力が格段に得やすくなったのである。

 理律子は他界したが、工次郎は島民と協力しつつ、科学技術事典の解読を進めていった。

 西暦2000年には、八丈島は、総合的に見ても、世界で最も科学技術が進んだ地域となった。

 もっとも、その頃ようやく作れるようになったものは、シャーレ、フラスコ、望遠鏡などのガラス製品や、原始的な火力発電所、石炭ストーブ、酒を蒸留したエタノール、注射器、多少改良された火薬、清の大筒を改良した原始的な大砲などにすぎない。

 電球、蓄音機などは実現できなかった。科学技術事典には絵が描かれていたが、機構の詳細は分からず、エジソンのような発明家は、島民の中から出なかったからである。

 同様に、プラスチック、合成繊維、電話、無線通信も実現できていなかった。ダイナマイトも同様である。

 もちろん、原子力発電、コンピュータなどの複合技術は、元になる技術も揃っておらず、まったく実現のめどが立たなかった。

 種痘は、牛痘が八丈島では見つからず、実現されていなかった。

 島では、科学技術事典に載っている「検疫」を行なっていた。

 しかし、本土から島流しになる人間からの天然痘等の感染の可能性はゼロではなかった。

 天然痘の恐怖からすら逃れてはいなかったのである。

IV.21世紀の地球

1.2000年ー2020年 幕府軍との20年戦争

 工次郎が、八丈島で神として崇められていることは、やがて幕府の知るところとなった。

 最初は、幕府は、八丈島は本土から遠く、島流しにしておけば大丈夫だと思っていた。

 しかし、鉄の船や気球など奇怪なものが作られているという情報を知り、とうとう第22代将軍は八丈島の征伐を命じた。

 工次郎は、本土の状況を望遠鏡で観察していた。

 幕府が改良して航行距離を延ばした木製の船が、大砲を積んで八丈島に攻めてきたのである。

 工次郎は決戦を覚悟し、島民を集めた。

 多勢に無勢であるが、幕府軍の船は木製であり、大砲も1800年代と性能は大差ない。

 工次郎は、幕府軍よりも性能の良い大砲を積んだ鉄の船で戦った。

 幕府軍の船は沈没し、工次郎は勝利を収めた。

 しかし、幕府軍は、各地の大名に増援を求め、何度も攻めてくる。

 八丈島は、技術水準こそ幕府より進んでいたが、数の点で幕府軍は優っていた。

 島民は次第に数を減らしていった。

 戦いは2020年頃まで続いたが、その頃には、島民は100人程度になってしまった。

 工次郎は、幕府軍には勝てないことを知った。

2.2020年ー2050年 アメリカ大陸への亡命

 工次郎は、今までの科学技術の成果をできるかぎり鉄の船に積み込み、島民100人と太平洋を渡ることにした。

 八丈島の技術水準でも、この航海は厳しいものだった。

 精度の悪いコンパスはあるが、依然として帆船である。蒸気機関は、まだ完成度が低くて使い物にならなかった。

 工次郎は、アメリカ大陸に到着した。

 工次郎と島民は、少しずつアメリカ大陸に定着していった。

3.2050年ー2100年 アメリカ大陸での人口の増加

 工次郎は、子供の理三郎、孫の工四郎に科学技術事典の解読の成果を伝えた。

 理三郎、工四郎は、島民の子孫やアメリカ原住民に科学技術を少しずつ教えていった。

 科学技術事典の解読はこの時期、遅々として進まなかった。

 島民の子孫や、原住民で科学技術を学んだ人口は、ようやく1万人を越えた。

 その頃、江戸では大飢饉が起こっていた。

 食べるものもなく、子供は間引かれ、各地で死を覚悟した農民による百姓一揆が頻発したが、すべて鎮圧された。

 この頃も、江戸幕府は新しいものを禁圧していたので、科学技術の進歩はほとんどなかったが、八丈島の島民を捕まえたことにより、鉄の船が作れるようになっていた。

 中国大陸では、清の次に興った大漢帝国が江戸幕府から鉄の船の技術を取り入れた。

 大漢帝国は、総合的に見れば、世界最高の科学技術水準を有していた。

X.22世紀の地球

1.2100年ー2200年 人口増加期

 アメリカ大陸では、科学技術を学んだ人口は増え続け、2200年にはようやく100万人を越えた。

 江戸と同じ程度の人口となったのである。

 日本の人口は、江戸時代から安定しており、約3000万人であった。

 乳児はばたばたと死に、疫病と飢饉に悩まされていた。

 22世紀に入っても、平均寿命は30歳台であった。

2.からくり人形の技術の発達

 2150年頃、江戸幕府の第30代将軍は、からくり人形を好んだ。

 新しいものの開発を厳しく禁じていた江戸幕府だが、からくり人形についてだけは禁制が解かれたのである。

 江戸は、新しく作られた色とりどりのからくり人形で賑わっていた。

 大漢帝国は、色々なものを改良していった。陶磁器はより精巧になり、火薬は性能がよくなっていた。

 しかし、職人は、発明を盛んに行なったわけではなかった。

 皇帝の中には、職人を大事にする者も存在したが、職人の地位は総じて低かった。

 天然痘や結核は、大漢帝国を悩ませた。22世紀に入っても、平均寿命はやはり30歳台であった。

 大漢帝国の皇帝は、江戸幕府から、からくり人形を好んで輸入した。

 江戸は、からくり人形貿易で大いに栄えたのである。

Y.23世紀の地球

1.2200年ー2250年 発明家の出現

 アメリカ大陸で、科学技術を学んだ人口が100万人を越えた。

 この頃から、少しずつ発明家が出てくるようになった。

 工四郎の遠い子孫である工好子は、発明を大いに奨励した。

 特許制度や賞を作り、科学者、技術者の地位を大いに向上させた。

 やがて、電球を発明する者が現れた。それまでの行燈は、電球に代わった。

 村には、電線が張り巡らされるようになったのである。

 電球の発明家は、大きな利益を手にした。

 また、ペニシリンなどの抗生物質が発明された。

 さらには、コンクリートが発明されて、道路が作られるようになった。

 車や電車など、交通機関も発達していった。

 2250年頃には、初歩的な航空機が発明された。人間の空への夢が実現されたのである。

 乳児死亡率は下がり、人口は急速に増えていった。

2.2250年ー2300年 世界最大の科学技術立国

 アメリカ大陸で、科学技術を学んだ人口が2300年には、5000万人になった。

 アメリカ大陸は、大漢帝国を抜き、世界最大の生産力を有するようになっていた。

 発明家のおかげで、プラスチックや、合成繊維も実現していた。

 天然痘も、根絶こそされなかったが、恐ろしい病気ではなくなっていた。

 科学技術事典の解明も、飛躍的に進んでいた。

 まだ解読されていないものに、原子力発電、コンピュータなどがあったが、解読は時間の問題と思われた。

Z.24世紀の地球

1.江戸幕府の崩壊

 2300年頃、大名は、アメリカ大陸の隆盛を聞き、大漢帝国よりも進んだ文明があることを知った。

 大名が、初めて江戸幕府に公然と不満を述べるようになったのである。

 江戸幕府は、もう大名を押さえつけることはできなかった。

 第40代将軍は、大政奉還をした。700年続いた江戸幕府に終止符が打たれたのである。

 新しくできた国は、大和の国と名づけられた。アメリカ大陸の進んだ文明を貪欲に取り入れたのである。

 平均寿命は急速に伸びた。

 しかし、技術者、研究者の地位は低く抑えられた。アメリカ大陸の技術を導入すればよいと考えたのである。

 科学技術事典は日本語で書かれていたが、その解明は大和の国ではあまり進まなかった。

 未来の日本人から伝えられた科学技術事典は、大和の国で解明されることはなかったのである。

2.2300ー2400年頃

 アメリカ大陸の技術者、研究者は、盛んに研究、発明をして、科学技術は飛躍的に進んだ。

 原子力発電やコンピュータも実現し、科学技術事典の最後の項目である有機ELディスプレイも解読された。

 工好子の子孫の理工太郎は、家に代々伝わる科学技術事典を食い入るように分析していた。

 理工太郎は、科学技術事典にレーザー光を当てると、そこに隠し文字が浮かび上がることが分かった。

 そこには、こう書かれていた。
 
 「科学技術の発展は、人類を幸せにするのだろうか。大和の国には、永遠に江戸時代のような静的な社会が続く方が良いという考えがある」。

 理工太郎は、先祖にこの本を渡した仙人が、未来の大和の国から来たことを知った。

 そして、24世紀において、その疑問を、もう一度考えることになったのである。

この小説はフィクションであり、特定の人物や史実との関係は全くありません。

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親サイトからの抜粋: 進歩を重視せず、社会や生活の安定を重視する人々もいます。これらの人々は常に多数派なので、これらの人々が社会を治める傾向があります。江戸時代がそうでした。300年間の平安な社会が築かれたのです。これは、1つの価値観ではあります。しかし、その結果、日本の発展は大きく遅れてしまいました。外国が開国を迫らなければ、我々は今も簡単な農具で田んぼを耕しているでしょう。数百年後の未来の人類である我々は、江戸時代の科学技術政策は支持することができません。同様に、我々は未来の人類が支持しうる科学技術政策を採る必要があるのではないでしょうか。



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